唯是 日出彦 Hidehiko Yuize “永遠の日出彦少年”のこと |
インフォメーション | |
昭和初期の国会でのスケッチが、衆議院憲政記念館の『尾崎行雄と議会政治特別展』(平成16年開催)に展示され、告知ポスターなどでも大々的に取り上げられました。 |
生涯 | |
1905(明治38)年、北海道室蘭郡室蘭町(現・室蘭市)で北海道庁官吏の三男として生まれる。江戸時代、唯是家は盛岡藩南部家中の漢学者であった。
北海道を中心に政財界人、文人らとの幅広い交流を持ち、松川嘉太郎(北海道中央バス第2代社長)、岸信介(第56、57代内閣総理大臣)、箕輪登(鈴木内閣郵政大臣、衆議院議員)、地崎宇三郎(大平内閣運輸大臣、衆議院議員)、町村金五(第2代北海道知事、田中内閣自治大臣、参議院議員)、一原有徳(版画家)、国松登(画家)、若狭函寿(わかさいも本舗創業者)らと親交を結んだ。 1966(昭和41)年、小樽市で急逝。享年61歳。数々の遺作が、衆議院憲政記念館、小樽文学館などに保存されており、各種展示会などで鑑賞できます。 |
活動の軌跡 | |
「わかさいも」の命名者 わかさいもは北海道・洞爺湖の銘菓です。わかさいもに同封されている商品説明のしおりにその経緯が書かれています。?わかさいも本舗のウェブサイト内の「漫画 わかさいも一代記」というコーナーでも紹介されています。 |
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追分記念碑(寿都町)の考案者 企画:唯是日出彦、箕輪登(元・郵政大臣) 題字:町村金五(元・北海道知事、参議院議員) 当初は題字をあの岸信介(第56、57代内閣総理大臣)が書くという企画だったそうです。岸氏が安保騒動で総理大臣を辞任後、諸国漫遊を行なった際、北海道でそのお供をしたのが日出彦と、当時、政治家を目指しながら寿都町で病院を営んでいた箕輪登氏でした。 その途中、寿都町で旅館「鰊御殿」に逗留。女将の橋本つかさんが江差追分の由来について岸氏に説明したところ、その話に大変感激した岸氏との間でこの記念碑の建立が話し合われ、即実現の運びとなりました。 その後、建設の過程で、題字は町村金五氏の手によるものとなり、記念碑は1965年に完成しました。 |
北海道における民間人の航空機搭乗第1号 小樽新聞社が初めて「北海一号」と名づけた飛行機を所有したとき、「俺が乗ってやる!」と道内を遊覧。怖いもの知らずだったようです。「飛行機は、見るものではなく乗るもの」という同乗記を残しています。 1992年以来、機体のレプリカが新千歳空港1Fのロビーに展示されていましたが、2005年に撤去された模様。 |
参考文献 一原有徳『脈・脈・脈 山に逢い、人に逢う旅』(現代企画室、1990年) 小樽史談会編『ふるさとの想い出写真集45 明治・大正・昭和 小樽』(国書刊行会、1979年) 日本ケネルクラブ編『1967年度日本グランドチャンピオンプログラム』(日本ケネルクラブ、1967年) 北海道中央バス編『二十五年史』(北海道中央バス、1970年) 同『社報中央バス』各号 ---------- 『国会画報』2004年6月号(麹町出版、2004年) 『月刊さっぽろ』昭和46年10月号(財界さっぽろ、1971年) |