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唯是 日出彦

“永遠の日出彦少年”のこと

The Memory of Hidehiko YUIZE
(1905~1966)

  1. インフォメーション - 唯是日出彦に関する最新情報(最終更新日:2021年10月1日)
  2. 生涯 - タイムラインで生涯を解説(最終更新日:2023年10月30日)
  3. 活動の軌跡 - 特筆すべき功績を紹介(随時、追加予定)
  4. 文献 - 唯是日出彦に関する刊行物を紹介

インフォメーション

Information

◆日出彦の作品がプランゲ文庫に所蔵されています。

◆2021(令和3)年10月1日~10日、小樽文学館の特別展「オタブンヒストリー 小樽文学館43年の歩み展」で、日出彦の作品が展示されました。

◆2021(令和3)年、芳賀直樹の論文「鈴木商店小樽支店と志水寅次郎―欧州大戦下英国とのグリーンピース・コネクション―」で、日出彦の風刺画が紹介されました。

◆2019(令和元)年、日出彦が昭和初期に国会で描いたスケッチから尾崎行雄の風刺画が、衆議院憲政記念館の特別企画展「尾崎行雄没後65年―咢堂十二景を中心として―」で展示されました。

◆2018(平成30)年、久保田知恵子の論文「北海道の絵本―戦後期を中心に―」で、日出彦の制作した絵本が取り上げられました。

◆2004(平成16)年、日出彦が昭和初期に国会で描いたスケッチから尾崎行雄の風刺画が、衆議院憲政記念館の特別展「―没後50年―尾崎行雄と議会政治特別展」の扉絵に使われました。

生涯

Life Story

出生

1905(明治38)年11月11日、北海道室蘭郡室蘭町(現・室蘭市)で北海道庁嘱託の土木技術者、唯是丙助の三男として生まれる。

江戸時代、唯是家は盛岡藩遠野南部家一門の士族であったが、父・丙助は弘前の東奥義塾を経て渡道し、1887(明治20)年、新設の札幌農學校工学科に入学する。

丙助は1893(明治26)年、札幌村副戸長(村長)を務めた稲場元助の五女・スヱと結婚し、3男3女の末子として日出彦が誕生。長兄に一三(唯是想山)、次兄に健彦。

丙助の転勤に伴い、室蘭→札幌→深川→札幌と移り住む。幼少時より画才を発揮し、東京美術学校(現・東京芸術大学)への入学を望む。

ジャーナリスト

1925(大正14)年、次兄・健彦が在職していた小樽新聞社(樽新。現・北海道新聞社)に入社し、札幌支社に勤務。文才と画才を認められ、本社美術部へ転勤。

1930(昭和5)年前後、国会番記者として活躍する。議会の風刺画や議員の似顔絵を交えた記事を執筆し、読者の絶賛を浴びる。満洲、日本統治下の朝鮮や樺太へも取材に出る。

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この頃、健彦は樽新から時事新報社札幌支局長に転じる。
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1936(昭和11)年、企画部次長。さっぽろ雪まつりの原形となった「小樽雪まつり」を企画。

1941(昭和16)年、新聞統制によりフリーとなる。『週刊北海タイムス』を創刊するが、戦時の紙不足により廃刊。

1946(昭和21)年、健彦と共に『新北海』の創刊に関わる。その後、新北海は北海タイムスと統合し、新装の北海タイムスに記事や挿画を寄稿。

以降、国会議員や地方議会議員の演説草稿や広報宣伝も手がけた。

漫画家

1926(大正15)年、札幌で即席漫画バザーを開催する。

1927(昭和2)年、加藤悦郎らと『北海道漫画』を創刊。

1929(昭和4)年、『漫画時代』を創刊。

1946(昭和21)年、新星社にて漫画本、絵本を出版。『黒い鶏』『幸の鍵』『はちみつ坊や』など7作品がプランゲ文庫に所蔵されている。 

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絵本にまつわる話は、久保田知恵子(藤女子大学非常勤講師)による論文「北海道の絵本―戦後期を中心に―」が詳しい。

軍用犬・警察犬の育成

犬の飼育士・訓練士としての権威で、戦中は帝國軍用犬協會(現・日本警察犬協会)の役員となり、軍用犬の検査官、満洲への輸送指揮官を務める。

戦後は、日本ケネルクラブ、北海道シェパード犬登録協会を創立し、警察犬・盲導犬の育成、血統犬種の保存に力を注いだ。

「唯是日出彦と軍用犬」シリーズ

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犬にまつわる話は、現代版画の巨匠、一原有徳の著書『脈・脈・脈 山に逢い、人に逢う旅』が詳しい。

歌人、音楽家

1927(昭和2)年、並木凡平らと口語短歌誌『新短歌時代』を創刊。毎号の表紙の木版画も制作。

1931(昭和6)年、『青空』の同人となる。同誌でも表紙絵を制作。

小林旭のヒット曲「スキー小唄」は、作曲者不詳とJASRACに登録されているが、1936(昭和11)年、「小樽雪まつり」のテーマ曲として日出彦が作詞・作曲したものが原曲である。

1966(昭和41)年、都はるみ&杉良太郎が歌う、小樽市中心部の商店街「都通り」のイメージソング「都通り音頭」を作詞・作曲。

父・丙助が洞簫奏者、長兄・一三が都山流竹琳軒「唯是想山」であったことから、自らも都山流準師範の資格を得て、「唯是想聖」と号した。

次兄・健彦は詩吟家で、芸能プロデューサーとして新興演芸協会(新興キネマ演芸部)の設立に参画した関係上、兄弟揃って映画や演芸にも造詣が深かった。

小樽在住時の八代目翁屋さん馬を世話した。


バスガイドの育成

戦後、松川嘉太郎の招きで北海道中央バスの顧問に就任。バスガイドの教育を担当し、数々の“名セリフ”を考案する。“名セリフ”は森繁久彌の名曲「知床旅情」にカップリングされ、レコード化。

北海道の旅「知床旅情」

1952(昭和27)年、北海道中央バスを全国観光バスガイドコンクール第2回大会で優勝に導く。1954(昭和29)年には道南バスも指南し、同第4回大会で優勝に導く。

バスガイドの地位向上に尽力し、道内バス業界の発展に貢献した。

交友関係

北海道を拠点に政財界人、文人らとの幅広い交流を持ち、

坂本健吉(陸軍少将)

岸信介(第56、57代内閣総理大臣)
地崎宇三郎3代(衆議院議員、大平内閣運輸大臣)
町村金五(第53代警視総監、第2代北海道知事、参議院議員)
箕輪登(衆議院議員、鈴木内閣郵政大臣)

加藤幸吉(札幌自動車合資会社社長)
壽原外吉(小樽商工会議所第15代会頭、スハラ商事会長)
松川嘉太郎(小樽商工会議所第14代会頭、北海道中央バス第2代社長)
若狭函寿(わかさいも本舗創業者)

落合弘作(樺太新聞記者、北海讀賣主幹)
北川勤(北海道時事放声社初代社長)

一原有徳(版画家)
並木凡平(歌人)
棟方志功(版画家)

らと親交を結んだ。

家族・親族

妻・ソノは小学校教諭、小樽市社会教育委員を経て、小樽市議会初の女性議員となり、4期16年務めた。

長兄・一三は都山流竹琳軒「唯是想山」で、札幌で新興邦楽会を立ち上げ、尺八奏者として名を成した。一三の長男が邦楽界の第一人者となった震一

次兄・健彦はジャーナリストで詩吟家。小樽新聞記者を振り出しに、時事新報社札幌支局長まで務めた。戦中、松竹で芸能プロデューサーとしてハットボンボンズやあきれたぼういずを育てた。戦後は実業家となり、北日本砂鉄鉱業(現・日本製鐵)を創業した。健彦の長男が経済学者の康彦

逝去

1966(昭和41)年10月19日、小樽市で急逝。享年60。

『北海讀賣』昭和41年11月10日号は追悼記事を掲載し、「無冠の帝王ともいうべき自由人の一生」と偲んだ。

没5年後の1971(昭和46)年、『月刊さっぽろ』140号が「“永遠の日出彦少年”のこと」という特集記事を組んだ。

数々の遺作が、衆議院憲政記念館、小樽文学館などに保存されている。


活動の軌跡

What He Did

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「わかさいも」の命名者

わかさいもは北海道・洞爺湖の銘菓です。樽新記者だった1930(昭和5)年、わかさいも本舗の創業者、若狭函寿から相談を受け、競合他店との差別化を図るため、この商品名を考案しました。わかさいもに同封されている商品説明のしおり(旧版)にその経緯が書かれています。

北海道における民間人の航空機搭乗第1号

北海一号

1926(大正15)年、小樽新聞社が「北海一号」(三菱R二二型<海軍一〇式艦上偵察機>)と名づけた飛行機を初めて保有した際、誰もが恐れて乗る者がいない中、「俺が乗ってやる!」と道内を遊覧。怖いもの知らずだったようです。「飛行機は、見るものではなく乗るもの」という書き出しで始まる同乗記を残しています。

返礼飛行

北海道鉄道札幌線(現・千歳線)開通に際し、小樽新聞(樽新)は鉄道ツアーを企画、昼食弁当の供給を千歳村に依頼しました。樽新は返礼として、1926(大正15)年10月22日、北海一号機を村の上空で飛ばすことにしましたが、興味津々の村民は2日間で150人を動員し、無償で着陸場を整備しました。場所は現在の航空自衛隊千歳基地の周辺だったようです(これが千歳空港の原形になりました)。

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千歳に着陸

操縦士は酒井憲次郎、機関士は野中某。北海一号は無事に村民の整備した原っぱに着陸しました。

北海一号の今

1992(平成4)年~2005(平成17)年、機体のレプリカが新千歳空港1Fのロビーに展示されていました。その後、千歳市蘭越の名水ふれあい公園隣接の浄水場に移設され、現在に至ります。 

追分記念碑の考案者

企画:唯是日出彦、箕輪登
題字:町村金五

江差追分

追分記念碑は北海道寿都町歌棄に所在する、民謡「江差追分」の一節を刻んだ記念碑です。かつて鰊漁で華やかだった開拓初期、積丹半島の神威岬から先はシケが激しく、海の神の怒りを買うとして、女人の渡航ができませんでした。「忍路高島およびもないがせめて歌棄磯谷まで」。北へ出漁した男に対する切々たる慕情を歌った歌です。  

 記念碑の建立     

当初は、題字をあの岸信介(第56、57代内閣総理大臣)が書くという企画で、話が始まったそうです。

岸が安保騒動で総理大臣を辞任後、気分転換に諸国漫遊に出た際、北海道でそのお供をしたのが日出彦と、当時、衆議院議員を目指し浪人中の箕輪登でした。 日出彦が戦前、国会番記者として岸と親交があったことと、箕輪が岸の弟・佐藤榮作の主治医兼秘書だった縁によるものです。

一行は旅の途中、寿都町で旅館「鰊御殿」に逗留。女将の橋本つかが江差追分の由来について岸に説明したところ、その話に大変感激した岸との間で記念碑の建立が話し合われ、日出彦が実現に向けて奔走しました。

その後、整備の過程で、題字は町村金五の手によるものとなり、記念碑は1965(昭和40)年に完成しました。

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北海道の旅シリーズ

バスガイドの教育に際し、名勝と名曲を掛け合わせた“名セリフ”を考案し、全国バスガイドコンクール大会で高い評価を得ました。森繁久彌の「知床旅情(オホーツクの舟唄)」はレコード化されています。

文献

Publications & Documents

書籍

『札幌農學校一覧』(札幌農學校、1907年)

東奥義塾学友会編『東奥義塾再興十年史』(東奥義塾学友会、1931年)

和田藤吉『北海道の新聞と新聞人』(北海春秋社、1935年)

『日満一体の姿』(日本電報通信社、1940年)

『松竹七十年史』(松竹、1964年)

加藤幸吉の追憶編集委員会編『加藤幸吉の追憶』(加藤信吉、1964年)

『道南バス四十年史』(道南バス、1966年)

北海道中央バス編『二十五年史』(北海道中央バス、1970年)

日本科学史学会編『日本科学技術史大系』第22巻(第一法規出版、1971年)

吉田政吉『遠野南部家物語』(国書刊行会、1973年)

遠野市史編集委員会編『遠野市史』第3巻(万葉堂書店、1976年)

小樽史談会編『ふるさとの想い出写真集45 明治・大正・昭和 小樽』(国書刊行会、1979年)

北海道大学編『北大百年史 札幌農学校史料(二)』(ぎょうせい、1982年)

札幌村郷土記念館編『東区今昔3 東区拓殖史』(札幌市東区役所、1983年)

『物語虻田町史』第5巻(虻田町、1983年)

唯是震一『私の半生記』(砂子屋書房、1988年) 

一原有徳『脈・脈・脈 山に逢い、人に逢う旅』(現代企画室、1990年)

『小樽市史』第7巻行政編(上)(小樽市、1993年)

『新札幌市史』第4巻通史4(札幌市教育委員会、1997年)

『小樽の女性史』(小樽市男女共同参画プラン推進協議会、1999年)

旭川市史編集委員会編『新旭川市史』第3巻通史3(旭川市、2006年)

『北海道の出版文化史』(北海道出版企画センター、2008年)


雑誌・冊子

『軍用犬』(帝國軍用犬協會、1933年~1943年)

『犬の研究』(犬の研究社、1941年~1942年)

『愛犬の友』(誠文堂新光社、1952年~1966年)

『社報中央バス』(北海道中央バス、1952年~1966年)

『1967年度日本グランドチャムピオンプログラム』(日本ケネルクラブ、1967年) 

『月刊さっぽろ』140号(財界さっぽろ、1971年)

『国会画報』2004年6月号(麹町出版、2004年)


論文

谷暎子「北海道における戦後の児童出版物―1945年から1950年まで―」『北星学園女子短期大学紀要』第31号(北星学園大学、1995年)

原口征人、今尚之、佐藤馨一「札幌農学校における土木教育」『高等教育ジャーナル』第5号(北海道大学、1999年)

黒田重雄「札幌の偉人・上島正 :武士の身を捨て単独で北海道開拓に挑戦し一代を築いた企業人」『北海学園大学経営論集』(北海学園大学、2011年)

久保田知恵子「北海道の絵本―戦後期を中心に―」『ヘカッチ』第13号(日本児童文学学会北海道支部、2018年)

芳賀直樹「鈴木商店小樽支店と志水寅次郎―欧州大戦下英国とのグリーンピース・コネクション―」『小樽市総合博物館紀要』第34号(小樽市総合博物館、2021年)


新聞記事

新北海 昭和24年1月6日号(1949年)

北海タイムス 昭和25年2月7日号(1950年)

同26年連載「おらが町内人記」(1951年)

39年12月12日号(1964年)

同42年9月15日号(1967年)

北海讀賣 昭和41年11月10日号(1966年)

唯是一寿オフィシャルウェブサイト
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