断続的に当家の歴史について書いています。
今回は、天寿国繍帳と当家の関係について取り上げます。先日、奈良県斑鳩町の中宮寺を訪ね、そのレプリカを見てまいりました(実物は、奈良国立博物館に寄託されています)。
天寿国繍帳は、飛鳥時代(7世紀)の染織工芸品です。天寿国曼荼羅繡帳(てんじゅこくまんだらしゅうちょう)とも呼ばれます。
銘文によれば、聖徳太子の薨去を悼んで妃の橘大郎女が作らせたといわれています。「聖徳太子が往生した天寿国のありさまを刺繡で表した帳(とばり)」であり、「天寿国」とは、阿弥陀如来の住する西方極楽浄土を指すものと考えられています。断片のみの現存ですが、飛鳥時代の染織工芸、絵画、服装、仏教信仰などを知るうえで貴重な遺品であり、国宝に指定されています。
洋の東西を問わず、パラダイス思想はありますね。私が愛聴するロキシー・ミュージックの『アヴァロン』なんかも、アーサー王が死後に向かった西方海上の極楽島をテーマにしたアルバムです。
この帳のオリジナルには、製作の事情を記した銘文が刺繡で表されていました。この銘文の全文は『上宮聖徳法王帝説』に引用され、一部に誤脱があるものの、飯田瑞穂の考証によって400字の文章に復元されています。
斯帰斯麻 宮治天下 天皇名阿 米久爾意
斯波留支 比里爾波 乃弥己等 娶巷奇大
臣名伊奈 米足尼女 名吉多斯 比弥乃弥
己等為大 后生名多 至波奈等 已比乃弥
己等妹名 等已弥居 加斯支移 比弥乃弥
己等復娶 大后弟名 乎阿尼乃 弥己等為
后生名孔 部間人公 主斯帰斯 麻天皇之
子名蕤奈 久羅乃布 等多麻斯 支乃弥己
等娶庶妹 名等已弥 居加斯支 移比弥乃
弥己等為 大后坐乎 沙多宮治 天下生名
尾治王多 至波奈等 已比乃弥 己等娶庶
妹名孔部 間人公主 為大后坐 瀆辺宮治
天下生名 等已刀弥 弥乃弥己 等娶尾治
大王之女 名多至波 奈大女郎 為后歳在
辛巳十二 月廿一癸 酉日入孔 部間人母
王崩明年 二月廿二 日甲戌夜 半太子崩
于時多至 波奈大女 郎悲哀嘆 息白畏天
皇前曰啓 之雖恐懐 心難止使 我大皇與
母王如期 従遊痛酷 无比我大 王所告世
間虚仮唯 仏是真玩 味其法謂 我大王応
生於天寿 国之中而 彼国之形 眼所叵看
悕因図像 欲観大王 往生之状 天皇聞之
悽然告曰 有一我子 所啓誠以 為然勅諸
采女等造 繡帷二張 画者東漢 末賢高麗
加西溢又 漢奴加己 利令者椋 部秦久麻
後半部の「世間虚仮 唯仏是真」から名字「唯是」が取られた、と伝わっています。世の中は虚しいものだが、仏だけは真実である、という意味です。仏だけが真実かどうかはともかく、世間の雑念に惑わされることなく真実を見極め、法(のり)の道や理(ことわり)を重視するという太子の思想が、この句に凝縮されています。

ちなみに、「天寿国」の「寿」は「命」を意味しており、私の名前「唯是一寿」を書き下すと、「ただ これ ひとつの いのち」となります。しかしながら、幼少時から特定疾患に悩まされ、命脈の薄い、名前負けの人生を歩んでいます(笑)。子どもには簡単な名前を付けることをおすすめします。
歴史上、聖徳太子の子孫は、643年に蘇我氏に滅ぼされ、絶えたことになっています。ただし、すべての子孫が死んだのではなく、14人いたとされる皇子や皇女の誰かが系譜をつないだ可能性が高いです。あるいは、6人いた兄弟姉妹の系統もあります。その中に当家の先祖がいるのかもしれません。史料が少なく、確かめようもない話ですが、当家の伝承として大切に守っていきたいと思います。
次回は、龍安寺の「知足の蹲踞」を取り上げる予定です。


[…] 【HISTORY】天寿国繍帳と「唯是」 […]