1887(明治20)年、唯是丙助は札幌農學校工学科に首席で入学しました。母・クマや叔母・スヱらと暮らしていた南三条西1丁目の水越家を出て、寄宿舎に入寮します。
工学科では佐藤昌介や廣井勇の教え子となり、後に北海道庁の技師として高名になる岡崎文吉と机を並べます。

丙助は勉学に邁進しました。と言いたいところですが、どうもそうではなかったようです。1年次の前期試験の結果は、5人中5位。この時期、クマが病魔に倒れたことが大きく影響していると思われます。度々、看病のため外泊許可を願い出ています。
女手一つで息子丙助を農学校に学ばせるのは大変なことだった。過労の末、病魔に取りつかれたクマはやがてこの世を去ったのである。もっとも敬愛していた母を失った丙助は酒に慰みを求め、大酒飲みの悪癖を身につけるようになった。学問からも次第に遠ざかり、空しさはいよいよ募るばかり、自らエリートコースから身を引く羽目に陥ったのである。
唯是震一『私の半生記』(砂子屋書房、1983年)
クマの看病に時間を割かれた丙助は、2年次まで何とか授業に出席できたものの、3年次には休学し、前後期試験を欠席しました。そして、3年次から4年次に入る1889(明治22)年11月、クマの他界と自身の病気により、さらに半年間の休学願を提出し、受理されます。

結局、都合2年の休学を経て、1891(明治24)年9月、最終的に退学の道を選びます。理由は、「罹病の為」となっています。「故工学博士小野常治君小伝」には、岡崎文吉による次の記述がありました。
・・・自分と平野君丈其選に入り予科から其所に進級してきた連中は、小野常治君、宮崎繁太郎君、唯是丙助君とゝもに五名であった。一学年修学中小野君は頭脳故障のため一年休学、宮崎君と唯是君は退学した。
工学部土木一期会編『北大工学部土木の源流』(北大工学部土木一期会、1987年)
また、工学科に関する研究論文にも、次の記述があります。
予科の入学資格は 13 歳以上とされたが,尋常中学校卒業の入学者はまずこの予科の相当年級に編入してから本科に入った。つまり,尋常中学校卒業後に高等中学校で大学予科教育3年を終了し,本科の教育3年を受ける帝大工科大学と比較して,最短で1年早く,実際は同じ年齢で工学士を得る課程となっていた。当然進級は難しく,表8に示すように本科に入学した 25 名のうち9名(網掛けの学生)が卒業まで至っていない。
原口征人、今尚之、佐藤馨一「札幌農学校における土木教育」(北海道大学、1999年)
数年遅れたとしても、何とか卒業まで踏ん張ればよかったのにと思います。同期の小野常治は頭脳故障から復学し、後に工学博士になっています。丙助は、士族の子弟というプライドだけが高く、体力と精神力は弱かったのかもしれません(笑)。
『北海評論』昭和23年10月号(北海評論社、1948年)は丙助を、「同期生中の暴れん坊だった」と評しています。



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