断続的に当家の歴史についての記事を書いています。
そんな中、今月発売の『歴史人』3月号は、特集「奥州藤原氏の栄華と没落」です。早速、買ってみました。
じつは当家には、奥州藤原氏の末裔という説も伝わっています。従伯父である唯是震一(作曲家)の著書『私の半生記』に次の記述があります。
私の父方の祖先の地は岩手県遠野である。一説に藤原秀衡の末裔だとも聞かされているが、その真偽のほどはつまびらかではない。もしそれが本当だとすれば、さらに遠く京都地方に求め歩く必要があるわけだが、・・・。
唯是震一『私の半生記』(砂子屋書房、1983年)
『歴史人』3月号に、この記述を裏づける説明はあるでしょうか。読み進めていきます。

『歴史人』3月号
残念ながら、藤原秀衡の末裔の後日談はありませんでした。「藤原清衡の孫の樋爪俊衡は、奥六郡の北半分を治めていたが、頼朝に従い領地を安堵された」とあるのみです。歴史的には、奥州藤原氏は滅亡したことになっています。
してみると、当家の伝承は誤りなのでしょうか。そうとも言えないようです。前述の震一の認識から察するに、近代における伝承の出元は、私の曾祖父・丙助だと思われます。そして、さらにさかのぼって、丙助の母・クマ(私の高祖母)が知っていた話なのでしょう。
クマは1800年代初め、文政生まれで、遠野南部家の御三家衆澤里家と永代家老格福田家の血を引く娘であり、先祖代々、その話を継いできた可能性が高いです。澤里家か福田家に、伝承を裏づける記録が残っているのかもしれません。
また、当家には家紋からの類推上、清和源氏とのつながりも伝わっています。
近年、東北地方には近畿地方と異なる王朝や文明が栄えていた、という説が歴史界を賑わすようになってきました。聖徳太子の子孫が東国に落ちのび、北方の豪族らと一緒に国や文明を築いていったとすれば、、、そこに奥州藤原氏が流入し、平泉の黄金時代を築いたとすれば、、、そこに源義経が盟主として関わったとすれば、、、なんとも夢のある話ではないでしょうか。
すべては想像の領域を出ませんが、新たな発見で歴史が変わっていく可能性もあります。コツコツと先祖探求・家系調査を続けていきたいと思います。


[…] 【HISTORY】奥州藤原氏と唯是家 […]
[…] 【HISTORY】奥州藤原氏と唯是家 […]