高祖父・稲葉元助の生涯について、「稲葉元助と北海道開拓」シリーズを書いています。
今回は、稲葉家の他の人々について触れてみたいと思います。
元助には1男8女がありました(異説あり)。上8人が女子で、いちばん下が男子だったようです。男子は又助といいます。又助は、1908(明治41)年から札幌村々会議員を務めました(『新札幌市史』第3巻〈通史3〉。↑冒頭のアイキャッチ参照)。
文献や資料によっては、この又助と元助を混同しているものがあり、時系列を解読するのに苦労しました。
『東区今昔 大友堀』には、札幌村古老の回想として次の記述がありました。
大覚寺の前でたたずむ。・・・この寺は、伏古川の川べりであったが、ここの土地を持っていたのは、はじめ稲葉又助さんという人。稲葉さんは、明治の初めにこの地にはいった人だが、稲葉さんの家は、二階建てのハイカラな洋館であり、上げ下げのできるしゃれた窓が、ずらりと並んでいたという。
札幌村歴史研究会、札幌市東区総務部総務課編『東区今昔 大友堀』(札幌市東区総務部総務課、1982年)
この回想も、元助と又助を混同している可能性があります。「明治の初めにこの地にはいった人」は、父の元助のほうです。
又助は、大正期に家具商とインテリア業を営んでいました。1915(大正4)年の第2回札幌工業品品評会で、洋箪笥の部2等賞を受賞しています。又助は男子を遺さず、男系としての稲葉家は途絶えたようです。女子が婿養子を迎え、稲葉の家名を継ぎました。
直系子孫の著名人に、稲葉圭亮がいます。圭亮は慶應義塾大学を卒業後、大和証券に入社。国際畑を歩み、外資系金融に転職。CSファースト・ボストン証券日本代表、UBS証券日本代表、日本証券業協会理事を務めました。

元助の女子8人のうち、五女・スヱ(1870~1914)が私の高祖母です。札幌農学校の唯是丙助と結婚しましたが、1914(大正3)年、44歳で早逝しています。
スヱの子どもたち(元助の孫)が、一三(都山流竹林軒「唯是想山」)、健彦(ジャーナリスト、実業家)、日出彦(ジャーナリスト、クリエーター)の“唯是3兄弟”です。
一三は札幌中学校(札中。現・札幌南高等学校)在学時、札幌村の稲葉邸から徒歩で通ったそうです(唯是震一『私の半生記』)。この時代の札中は一中になる前で、現在の北8条西4丁目に所在したようなので、稲葉邸から徒歩30分程度の通学だったのでしょうか。
唯是家の戸籍によれば、1890(明治23)年時点での本籍地は「札幌郡札幌村八番地」となっています。その5で取り上げたほかに、『札幌村史』にも「五番地は稲葉又助(今の大覚寺の所)」という記述があり、五番地〜八番地が稲葉家の所有地だったと推定できます。邸宅は八番地に建っていて、稲葉家と唯是家が暮らしていたのでしょう。
その7へ続く
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