札幌農學校退学後の丙助は、どんな人生を送ったのでしょうか。
前回の記事において、退学の要因となったのが、1889(明治22)年10月の母・クマの逝去および自身の罹病であったことを説明しました。
丙助はクマの死により遠野との縁が切れたと考えたのか、1890(明治23)年10月、岩手県西閉伊郡綾織村から石狩国札幌郡札幌村八番地稲葉元助方に戸籍を移しています。この時期、稲葉スヱと交際し、稲葉家とのつながりが深くなっていったことが大きく影響しているものと思われます。

1891(明治24)年、丙助は北海英語学校(現・北海高等学校)の教員となります。同校は1885(明治18)年、大津和多理が札幌農學校予科入学をめざす中等教育機関として設立したものです。予備科卒業かつ工学科中退であったことから、当時は教員資格があったのでしょう(北海学園創基百周年記念事業出版専門委員会北海百年史編集委員会編『北海百年史 百折不撓』)。

教員としての在籍期間は不明ですが、この時期、丙助は華燭の典を挙げています。1893(明治26)年12月、札幌村戸長であった稲葉元助の五女・スヱと結婚します。翌1894(明治27)年に長男・一三(唯是想山)、1901(明治34)年には次男・健彦が誕生。この間、北海道庁の嘱託となり、室蘭土木現業所に赴任します。1905(明治38)年、室蘭の地で三男・日出彦が誕生しています。
40代に入って心機一転、1910(明治43)年前後、深川に移ります。一三と共同で深川測量舎を設立し、治水事業や農地改良事業に取り組みます。また、深川土功組合の土木技術者として灌漑事業「大正用水」にも参与します(日本科学史学会編『日本科学技術史大系』第22巻)。

60代になって実業から身を退き、1928(昭和3)年前後、青春を過ごした札幌に戻り、南六条や北十一条で晩年を過ごします。
社会人以降の経歴が資料で確認できるのは、北海英語学校、室蘭土木現業所、深川測量舎の3つです。工学科同期の岡崎文吉が土木史に名を留める技術者になったことと比べると、じつに寂しい限りです。
私がこども心に知る丙助の祖父像を今に想い起してみると、家に在っては読書と飲酒を親しみ、外に出る折は釣り道具を背負い、世の中とは無縁に、孤独を愛していた姿としてよみがえって来るのである。
唯是震一『私の半生記』(砂子屋書房、1983年)
唯是家は岩手県遠野市の出で、唯是想山の父が北海道に移り住むまで、代々遠野に住んでいた。弘前市の東奥義塾で勉学に励んでいた想山の厳父は、学友から中国に伝わる民族楽器の洞簫を習った。厳父は生涯洞簫を離すことなく、折りを見ては吹いていた。・・・
中島聖山「新興邦楽会に活路を求めて」(1994年?)
・・・赤熱したストーブを囲んでの冬の光景、そのそばの定位置には先生のご尊父も居られ、私達の話相手になってくれた。札幌農学校の大先輩で古武士然たるところがあった。・・・
葛西義範「唯是想山二十七回忌追善演奏会プログラム」(1968年)
孤高の人生を送った丙助ですが、その遺伝子は子および孫の代に受け継がれ、後に大輪の花を咲かせます。一三・健彦・日出彦の“唯是3兄弟”は、昭和期に各界で才能を開花させました。そして、孫の震一は音楽家として、康彦は経済学者として、それぞれ国内外をステージに活躍しました。
・・・南部出の武将も病には勝てず、青ざめた苦しそうな形相に転じた丙助爺さんはハイヤーに乗せられて、病院へ向かった。これがお爺さんとの別れであった。
学者肌で、物ぐさで、後年は晩酌をむさぼり、その後は人が変ったように気焔を上げ、人と議論を交す。日中は英文洋書か中央公論を老眼鏡越しに、ただ黙々と読み耽る日課だった。唯是震一『私の半生記』(前同)
丙助は1935(昭和10)年10月18日、69歳で鬼籍に入ります。生涯、遠野の地に二度と足を踏み入れることはありませんでした。
最晩年を知る伯母・洋の回想によれば、丙助は英語の聖書を手放すことなく、終生、折に触れて読んでいました。その生涯にわたって弘前バンドや札幌バンドの影響があったのでしょうか。また、伯母の名「洋」は丙助の命名ですが、『旧約聖書』詩編23編の「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」にちなむのだそうです。
慶應~明治~大正~昭和という動乱の時代を生き抜いた古武士からすれば、「以て瞑すべし」という心境だったのかもしれません。


[…] 【HISTORY】遠野諸士と札幌農學校 その8 […]
[…] 【HISTORY】遠野諸士と札幌農學校 その8 […]