遠野諸士と札幌農學校の関わりについて、曾祖父・唯是丙助の少年期を中心に書いています。
曾祖父・唯是丙助が遠野で誕生したのは1866(慶應2)年です。その2年後の1868(明治元)年、戊辰戦争が起こります。
盛岡藩内は新政府方・旧幕府方に二分され意見が対立していましたが、最終的に楢山佐渡が藩論を奥羽越列藩同盟への参加継続で一致させ、途中から新政府側についた久保田藩を攻めます(秋田戦争)。開戦直後に大館城を制圧しますが、新政府側による大量の補給物資が久保田藩に到着すると戦況は一変し、藩境まで押し返されてしまいます。領内へ戻った楢山佐渡以下の秋田侵攻軍は、留守中に藩を掌握した新政府側勢力によって捕縛され、盛岡藩は新政府側へと翻意します。
なお、盛岡藩の支藩2家については、遠野南部家は本藩の大評定の際、第32代済賢が強硬に新政府側につくことを主張し、八戸藩は南部信順が薩摩藩からの養子であることから、共に秋田戦争に参戦しませんでした。新政府側を支持した済賢は蟄居閉門となります。
戊辰戦争が終わり、盛岡藩の領地は新政府に没収され、藩士は士族の身分を失います。この際、遠野諸士たちは、自分たちは本藩と違い、当初から官軍を支持した勤皇の士なのだから、処分は盛岡南部家のみに適用され、遠野南部家は当然のことながら士族に留まれる、と思っていました。しかし、新政府の方針は違い、盛岡藩は白石へ転封のうえ、藩士は支藩も含め浪人の身に落とされました。この間、遠野南部家は気楽なもので、勤皇の自分たちに処分は適用されないものと誤認して、何の手続きも取らずにいたそうです。
1869(明治2)年、遠野領は新設の江刺県に組み込まれ、盛岡藩から切り離されます。遠野南部家は浪人として扱われ、食録を給せられませんでした。そして、1871(明治4)年の廃藩置県となって、武士は完全にその身分を失います。その代償として、1874(明治7)年、旧藩に秩録公債が下賜されますが、遠野南部家には1,080両しか支給されませんでした。
秩禄公債(ちつろくこうさい)とは、1873(明治6)年12月27日に出された太政官布告第425号に基づき、家禄・賞典禄を自主的に奉還した者に対して起業資金を与える目的で起こされた公債のことです。奉還に応じなかった残りの華族・士族に対して数年後に強制的に配布された金禄公債とは異なります。
この処置に遠野諸士は反発し、新政府に抗議します。その結果、遠野南部家は別格であるとして、改めて7,000両が認められます(現代では1億円以上の価値があります)。しかし、実際に支給されたのは34年後の1908(明治41)年であり、その間に貨幣価値は下落し、何の役にも立たなかったそうです(以上、吉田政吉『遠野南部家物語』)。
1871(明治4)年以降の遠野南部家はほとんど無収入だったようで、借金や家財の処分で糊口をしのいでいたそうですから、秩録公債で家臣たちを養うことなど、土台無理な話でした。
このような時代に生まれた丙助は、生来の士族でありながら制度上は士族として扱われず、遠野諸士もその日の生活がやっとという、身分的にも経済的にも不安定な状況で育つことになります。その父・直志は遠野郊外の綾織に帰農した(あるいは、どこかの時点で没していたか。このあたりが不明)ようですが、八戸氏(遠野南部家)の血を色濃く引く母・クマは、丙助を農民にするのは忍びなく、本格的に学問を身に着けさせたいと考えます。
15歳で元服した丙助は1881(明治14)年、弘前の東奥義塾に入学します。


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