1881(明治14)年、15歳で元服した唯是丙助は、弘前の東奥義塾に入学します。
遠野で暮らしていた丙助が、なぜ弘前へ行ったのか。とくに、なぜ盛岡藩(南部家)と対立関係にあった弘前藩(津軽家)の藩校の流れをくむ東奥義塾だったのか。この謎を解く鍵となる論文がいくつかあります。
- 軽部勝一郎「自由民権期における近代学校成立過程の研究―岩手県遠野地方を事例として―」(教育史学会、2004年)
- 高畑美代子「イザベラ・バードに会った3人のクリスチャン学生と弘前教会・東奥義塾の活動」(弘前大学、2005年)
前回の内容と少し重複しますが、軽部の論文からは、当時の遠野の文教的背景を知ることができます。
幕藩体制の崩壊により遠野南部氏の居館所在地としての役割を失った横田村では,旧武士層の窮乏が目立った。遠野南部家士は陪臣であったためか士籍から除かれ,秩禄処分の際の金禄公債証書も支給されなかった。しかし,維新後も三陸沿岸と北上平野を結ぶ街道の中継地としての位置づけは変わらなかったことに加え,幕藩体制の崩壊により他領との行き来に生じる制約が撤廃されたため,商業活動は引き続き盛んであった。人口も一貫して5,000人前後を推移しており,小学校在籍者数も,『文部省年報』によれば,横田,東横田両校の合計で,1877年には453名,翌78年には441名,それ以降は横田,東横田両校の合併による横田小学校として,79年230名,80年273名,81年330名,82年400名,83年には409名を数えている。また,岩手県内各都市の1877年から1883年までの平均就学率を『文部省年報』にもとついて算出したところ,盛岡38.9%,一関54.0%,岩谷堂60.8%,花巻45.5%,水沢52.5%,遠野60.5%となり,あくまでおおよその参考としての数値にすぎないが,それでも他都市に比べ遠野の就学率が高いことが窺われる。
軽部勝一郎「自由民権期における近代学校成立過程の研究―岩手県遠野地方を事例として―」
母・クマは武門の誇りもあり、時代の流れに適応していくため、丙助に本格的に学問を身に着けさせようと考えたのでしょう。また、幕藩体制の崩壊により、弘前藩との往来や交流が自由になったこともあるのでしょう。東奥義塾を選んだ理由は、高畑の論文にヒントがありました。
弘前教会の受洗者名簿中には、2名の脇山がいる。脇山義保とその妻つやである。バードの記した‘they were superior young men’ また、かれが黒石の担当牧師であったことからWakiyamaは義保と同定した。彼が受洗したのは、1877(明治10)年10月7日、イングによる弘前での最後の受洗者のひとりである。
脇山義保は、当時の受洗者が津軽藩士族の子弟で東奥義塾の生徒であった中では、異色の存在である。彼は岩手県遠野出身の警察官であった。彼は自身の職歴について、「在官中明治八年北津軽郡元第五区警察署に任タリシ時」と記している。『青森県警察史』をみると、名簿の「五所川原警察署長」欄の最初に、脇山義保の名が載っている。それには第五大区警察出張所長、階級は十五等出仕として1875(明治8)年4月に任命を受けたことも記されている。ただ、彼の出身地、転出年月の欄は空白である。1877(明治10)年2月に第五大区警察出張所は、五所川原警察分署となり、所長の名称は署長へと代わった。この時の新制度により階級にも警部という名称が用いられるようになったので、脇山は警察制度変換期以前に、転勤あるいは辞職したと考えられる。
このあたりの事情を、山鹿旗之進は、「岩手県遠野士族で、弘前に赴任した警部であった脇山義保は、思うところあって、職を辞して東奥義塾に入学し、半ば教えながら、学んでいたのを本多庸一が引き取り同居させた。本多庸一夫妻の生き方に感銘した義保は、基督教の何たるかを知らぬ前に、幾ほどもなくイングより受洗した」と述べている。高畑美代子「イザベラ・バードに会った3人のクリスチャン学生と弘前教会・東奥義塾の活動」
遠野南部家の家臣であった脇山義保がこの時期、東奥義塾の教師となっていました。唯是家と脇山家は家が近く、共に上士であったことから、交流が深かったものと思われます。おそらく義保からの誘いや勧めがあり、丙助は東奥義塾に入ったのでしょう。
また、義保の影響を受けたのか、丙助はキリスト教にも興味を持ったようです。丙助が受洗したという話はありませんが、生涯、英語の聖書を手放さず、折に触れて読んでいたそうです。丙助とキリスト教の最初の接点が札幌農學校ではなく、東奥義塾であったことは興味深い点です。札幌農學校の「札幌バンド」同様、東奥義塾には「弘前バンド」と呼ばれる一団が根づいていました。

この時代の東奥義塾は草創期にあり、いずれもキリスト教宣教師である外国人教師陣の伝道や本多庸一塾長らによる自由民権運動が活発化するにつれて、世論からの風あたりが強くなり、1882(明治15)年末には旧藩主からの支援も途絶え、財政難にあえいでいた時期でした。
以前に、義保の在籍や丙助の学籍について東奥義塾図書館に尋ねたことがあるのですが、草創期の資料や記録は散逸していて残っていない、という回答でした。しかし、『東奥義塾再興十年史』(東奥義塾学友会、1931年)には、次の記述がありました。
・・・私は明治十七年五月頃退學したと記憶してゐるから、入学したのは十五年頃ではなかったか。・・・
英語は珍田捨巳、芹川得一、小栗山福蔵、武田邦雄、田中五郎、數学は中舘廣之助の諸先生。・・・
次に同窓生を見渡すに最上級では山田虎一郎、水木正俊、杉山壽之進の三氏、次の級には菊池武徳、山中英四郎、松野徳之助、成田元衛、今正助、成田哲四郎、唯是丙助、長尾猛五郎、大谷津甲、出町良蔵等々。笹森順造編『東奥義塾再興十年史』、高橋邦太郎「五十年前の回顧」(東奥義塾学友会、1931年)
この回想録から、丙助の入学年が1881(明治14)年と特定できました。珍田捨巳の生徒だったわけです。また、数学の中舘廣之進は遠野御三家衆中舘家の関係者かもしれません。
そして、翌1882(明治15)年、丙助の従弟である水越浩太郎が札幌から東奥義塾に転校してきます。丙助にとって1歳下の浩太郎は弟同然の存在であり、明治15年度の1年間を共に楽しく過ごしたに違いありません。


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