東奥義塾東奥義塾(1876年。出典:東奥義塾図書館)

1881(明治14)年、15歳で元服した唯是丙助は、弘前の東奥義塾に入学します。

遠野で暮らしていた丙助が、なぜ弘前へ行ったのか。とくに、なぜ盛岡藩(南部家)と対立関係にあった弘前藩(津軽家)の藩校の流れをくむ東奥義塾だったのか。この謎を解く鍵となる論文がいくつかあります。

  • 軽部勝一郎「自由民権期における近代学校成立過程の研究―岩手県遠野地方を事例として―」(教育史学会、2004年)
  • 高畑美代子「イザベラ・バードに会った3人のクリスチャン学生と弘前教会・東奥義塾の活動」(弘前大学、2005年)

前回の内容と少し重複しますが、軽部の論文からは、当時の遠野の文教的背景を知ることができます。

軽部勝一郎「自由民権期における近代学校成立過程の研究―岩手県遠野地方を事例として―」

母・クマは武門の誇りもあり、時代の流れに適応していくため、丙助に本格的に学問を身に着けさせようと考えたのでしょう。また、幕藩体制の崩壊により、弘前藩との往来や交流が自由になったこともあるのでしょう。東奥義塾を選んだ理由は、高畑の論文にヒントがありました。

高畑美代子「イザベラ・バードに会った3人のクリスチャン学生と弘前教会・東奥義塾の活動」

遠野南部家の家臣であった脇山義保がこの時期、東奥義塾の教師となっていました。唯是家と脇山家は家が近く、共に上士であったことから、交流が深かったものと思われます。おそらく義保からの誘いや勧めがあり、丙助は東奥義塾に入ったのでしょう。

また、義保の影響を受けたのか、丙助はキリスト教にも興味を持ったようです。丙助が受洗したという話はありませんが、生涯、英語の聖書を手放さず、折に触れて読んでいたそうです。丙助とキリスト教の最初の接点が札幌農學校ではなく、東奥義塾であったことは興味深い点です。札幌農學校の「札幌バンド」同様、東奥義塾には「弘前バンド」と呼ばれる一団が根づいていました。

弘前バンド

この時代の東奥義塾は草創期にあり、いずれもキリスト教宣教師である外国人教師陣の伝道や本多庸一塾長らによる自由民権運動が活発化するにつれて、世論からの風あたりが強くなり、1882(明治15)年末には旧藩主からの支援も途絶え、財政難にあえいでいた時期でした。

以前に、義保の在籍や丙助の学籍について東奥義塾図書館に尋ねたことがあるのですが、草創期の資料や記録は散逸していて残っていない、という回答でした。しかし、『東奥義塾再興十年史』(東奥義塾学友会、1931年)には、次の記述がありました。

笹森順造編『東奥義塾再興十年史』、高橋邦太郎「五十年前の回顧」(東奥義塾学友会、1931年)

この回想録から、丙助の入学年が1881(明治14)年と特定できました。珍田捨巳の生徒だったわけです。また、数学の中舘廣之進は遠野御三家衆中舘家の関係者かもしれません。

そして、翌1882(明治15)年、丙助の従弟である水越浩太郎が札幌から東奥義塾に転校してきます。丙助にとって1歳下の浩太郎は弟同然の存在であり、明治15年度の1年間を共に楽しく過ごしたに違いありません。

By 唯是 一寿

唯是家第8代。1972年、北海道生まれ。早大卒。団体役員、会社役員、国家公務員(法務省、非常勤)。東京都港区在住。“風街”で合理性と最適化を追求する、ミニマルな人生。本ブログでは、公共・公益活動、先祖探求・家系調査、短歌について発信。

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