唯是丙助唯是丙助

札幌農學校予備科および工学科第1期生であった唯是丙助は、1866(慶應2)年11月10日、唯是直志の次男として遠野で生まれました。唯是家のルーツについては諸説ありますが、一例として唯是震一の著書『私の半生記』には次の記述があります。

私の父方の祖先の地は岩手県遠野である。一説に藤原秀衡の末えいだとも聞かされているが、その真偽のほどはつまびらかではない。もしそれが本当だとすれば、さらに遠く京都地方に求め歩く必要があるわけだが、・・・

唯是震一『私の半生記』(砂子屋書房、1983年)

この記述から40年以上が経過していますが、その間、現在に至るまでの調査から、2025年の現時点では、複数の氏の混合により江戸時代中期以降に唯是家が成立した、と結論づけています。背景を少し説明します。

これまで、当家の家紋、とくに表紋「丸に四つ石」から類推し、戦国大名の和賀氏およびその後裔の小原氏の系統が有力であると考えられてきました。しかし私の調査で、当家の裏紋は藤紋の「下り藤」であることが判明しました。震一が著書で語った藤原秀衡説も厳密には不正確で、奥州藤原氏というよりは、さらにその先祖である藤原秀郷に端を発すると考えるのが正しいようです。秀郷は藤原北家魚名流の貴族で、平将門を討伐したことで有名です。

表紋「丸に四つ石」と裏紋「下り藤」

また、八戸氏系小笠原氏の系統とする説も有力と思われます。小笠原氏は八戸氏18代政栄を祖とする家柄で、遠野南部家では勘定方を世襲していましたが、寛永期の岡前騒動で喧嘩両成敗の憂き目に遭っています(吉田政吉『新遠野物語 伝承と歴史』)。成敗後の小笠原氏が和賀氏系小原氏と合同した、あるいは小原に転じた可能性についての説が存在します。

さらに、当家の菩提寺から推測すると、水戸徳川家の御附家老であった中山氏(『水戸黄門』の中山備前守で有名)との関連もあるようです。加えて、古くは伝説の域を出ませんが、名字の由来である聖徳太子との関連も捨てきれません。

さて、話が少し横道にそれましたが、それらのルーツが複雑に絡み合っているからなのか、丙助の父・直志は遠野南部家一門の上士で、家老職に次ぐ百石並に列せられ、奉行職を務めることのできる家格でした(堀合光雄編『遠野南部家臣団 御支配帳集』)。直志は仮名を「岩尾」と称し、盛岡屋敷で領主の側用人の役にあり、遠野南部家第32代義晋(のち済賢)の婚礼時には御歓使者も務めた人物です(遠野市編『遠野南部家御用留書 天保年間』)。

直志には前妻との間に藤蔵という長男がありましたが、次男である丙助とは25歳も離れていました。親子ほど歳の隔たりがある兄とは親しみがなかったといいます。丙助の母は、後妻のクマです。クマは小向家から唯是家に嫁いできました。その父・源右衛門は御三家衆澤里家の次男から小向家の養子となっているので、クマは遠野南部家第11代長安の血脈に連なります。

クマの生家である小向家は本姓を「昆」といい、八戸氏譜代の家柄で、八戸直栄の遠野移封に従って八戸から遠野へ移住した旧臣で、代々、要職である御武頭を世襲していました。小向家は男子に恵まれない代にあっては、御三家衆澤里家もしくは永代家老格福田家から養子を取り、家名を継いできました。それで、クマには八戸氏の血統が色濃く受け継がれているわけです。

クマには2弟1妹がありました。上の弟の省吾は世襲の御武頭を務め、小向家を継ぎました(吉田政吉『新遠野物語 伝承と歴史』)。下の弟の周平は萩野家へ養子に行き、郷校信成堂の教授を務めました(田面木貞夫編『山奈宗真 遠野の生んだ先覚者』)。妹のスヱは、これまた八戸氏譜代で遠野南部家御祭禮役者を世襲する家柄であった水越家に嫁ぎました(『遠野市史』第2巻)。

こうして丙助は上士の家に囲まれて生を受けましたが、父母が高齢になってからの子どもであったため、武門の厳格なしきたりの中にありながらも甘やかされて育ったようです。

世は幕末で動乱の時代、丙助誕生の翌1967(慶應3)年、大政奉還が起こります。

By 唯是 一寿

唯是家第8代。1972年、北海道生まれ。早大卒。団体役員、会社役員、国家公務員(法務省、非常勤)。東京都港区在住。“風街”で合理性と最適化を追求する、ミニマルな人生。本ブログでは、公共・公益活動、先祖探求・家系調査、短歌について発信。

8 thoughts on “【HISTORY】遠野諸士と札幌農學校 その2”

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