北盛館北盛館広告(『北海道立志編』第1巻)

前回、曾祖父・唯是丙助の従弟である水越浩太郎について触れました。今回は、その水越家についてご紹介します。

水越家は八戸氏譜代の家臣で、代々、遠野南部家の御祭禮役者を務める家柄でした。幕末の当主は、水越隆治です。高祖母・唯是クマの妹であるスヱが隆治に嫁ぎ、唯是家と水越家は親戚関係になりました。浩太郎は1867(慶應3)年7月24日生まれなので、丙助の1歳下ということになります。

小向家々系図
小向家々系図

廃藩置県により、士族であった水越家も先祖代々の録を失います。隆治は帰農しますが、1871(明治4)年、早逝します。浩太郎は、わずか4歳でした。大黒柱を失った水越家にどんな事情があったのかは分かりませんが、遠野で暮らしを建てることは困難だったのでしょう。1875(明治8)年、スヱと浩太郎の母子は生活の場を新天地の北海道に求め、札幌に移住します。

この際、クマと丙助の母子も一緒に北海道へ渡ったのか、後日のことだったのか、このあたりの詳細が不明です。

スヱは、札幌本府の狸小路に旅人宿「北盛館」を開業します。現在の札幌市中央区南三条西1丁目で、吉田学園があるあたりです。

札幌農學校の史料によれば、工学科入学時の丙助やクマの住所もここになっています。

明治初期の札幌本府

小学生の浩太郎は雨龍学校に通います。一時、函館への遊学を経て札幌に戻りますが、秀才の誉れ高く、豊振塾では助教を務めます。1882(明治15)年には弘前の東奥義塾に入学し、1年先輩の丙助と一緒に時を過ごします。

井上高聡「札幌農学校開校(1876年)の経緯」(北海道大学大学文書館、2012年)

再び札幌に戻り、1884(明治17)年、17歳で札幌農學校予備科に入学します。勉学に飽き足らなかったのか、途中、休学して北海道庁の林業調査官を務めます。また、宮内省御料局の設置に伴い、同省官吏へ転出します。結局、休学期間を含めて足掛け5年間在学した予備科は依願退校します。学籍簿によれば、「家督相続により退校を許可せらる」となっています。

水越浩太郎学籍簿(提供:北海道大学大学文書館)

以降、浩太郎は家業の旅館経営に従事し、札幌の高額納税者に名を連ねます。同業者組合では代表を務めたほか、北海農會においては招魂祭委員も歴任します。また、立憲政友会々員としても活動します。

1897(明治30)年7月、南部行義が華族に列せられ男爵となった折、旧臣の浩太郎は記念の羽織を賜ります。また、廃藩置県以来、置き去りになっていた遠野諸士の身分も士族に回復されます。君臣共に祭典を催し、これを祝ったそうです(以上、北海道図書出版編集局編『北海道立志編』第1巻、「水越浩太郎氏」)。

浩太郎のその後については不明です。札幌や狸小路に関する歴史書を調べる限り、北盛館が大正前期まで営業していたことを確認できましたが、昭和期に存在した記録は見つかりませんでした。浩太郎に関する史料が大正時代で途絶えていることから、どこかの時点で亡くなった可能性が高いと思われます。したがって、その子孫の動向も分かっていません。是非、末裔の方とつながりたいと思っています。

北盛館が存続していれば、私は今頃、札幌でホテルのマネージャーかもしれません(笑)。

By 唯是 一寿

唯是家第8代。1972年、北海道生まれ。早大卒。団体役員、会社役員、国家公務員(法務省、非常勤)。東京都港区在住。“風街”で合理性と最適化を追求する、ミニマルな人生。本ブログでは、公共・公益活動、先祖探求・家系調査、短歌について発信。

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