1885(明治18)年11月、唯是丙助は東奥義塾から札幌農學校予備科第1級に編入します。1887(明治20)年7月に同科を卒業し、新設の工学科に進みます(↑キャッチアップ参照)。

工学科設置の経緯について、『北大百年史 通説』(北海道大学、1982年)は次のように述べています。
・・・拓地殖民上に農学校が不可欠ではなく、また、札幌農学校は学理高尚に過ぎ実業に暗い、というのが金子の論の要点である。・・・
このように一八八六年(明治一九)の札幌農学校は、その存在意義にかかわるような批判に明確な対応策を講ずることができず、かつ農園も大幅に縮小されるという厳しい状況にあった。こうしたときに現れ、大きな活躍をしたのが米国留学から帰国したばかりの佐藤昌介である。
(理由は明らかでないが、この年本科への入学者はいない。あるいは以前にも見られたような応募者の激減でもあったのであろうか。)
佐藤は一八八〇年に農学校を卒業し、その後渡米、ジョンス・ホプキンス大学に入学、八六年六月同校を卒業、ドクター・オブ・フィロソフィーの学位を得、同年八月に帰国した。一八八五年の夏、四カ月ほど、ドイツ・イギリスに学事視察旅行をしている。滞米中の一八八三年十二月、帰国後札幌農学校教師となることを条件として農商務省御用掛となり、次いで八六年三月北海道庁属に任用された。この間アメリカの農学校や拓地殖民に関する調査を命ぜられていた。
帰国より三カ月ほど後の一八八六年十一月、佐藤は「札幌農学校ノ組織改正ノ意見」と題する意見書を岩村長官に提出した。その冒頭で佐藤は、金子の論を「彼我ノ情勢ヲ審カニセザル浅見ノ評論」と批判し、北海道開拓には農学校が必要であることを強調した後、札幌農学校の制度・組織の改正に関する七つの提言をした。それは彼が調査した米国農学校の状況を念頭に置きつつ、前述したような問題解決の指針を示したものである。
佐藤の提案は、それまでの校則改正に関する議論が卒業生を北海道に定着させることを主目的としてなされたのに対し、それのみならず、農学校の機能を拡大し、北海道開拓により密接に関連づけることに重点を置いていた。具体的には工学科を設置し土木工学関係の人材を送り出すこと、開拓農民となる者のために簡易な農学教育を施す機関を併置すること、そして本科に農政学・殖民学など拓殖上必要な科目を取り入れることなどが提案されている。『北大百年史 通説』(北海道大学、1982年)
金子堅太郎(太政官大書記官)が「北海道三県巡視復命書」において札幌農學校を批判し、その存立が危ぶまれるなか、米国留学から帰国した第1期生の佐藤昌介が、組織改正により問題の解決を図ろうと試みます。その建言が受け入れられ、幅広い人材の育成を目的として工学科が設置されます。
丙助は首席で工学科へ進みます。同期入学は、丙助、岡崎文吉、小野常治、平野多喜松、宮崎繁太郎の計5名です。このうち、岡崎と平野は他校から入学してきました。予備科から進んだ者は、丙助、小野、宮崎の3名です。

『札幌農學校一覧』では、丙助の身分が「岩手県平民」となっている箇所がありますが、これは過去回で説明したとおり、廃藩置県以来、遠野諸士の処遇がなおざりにされてきたことによります。身分回復は、1897(明治30)年まで待たなければなりません。
1889(明治22)年7月、第2期生の廣井勇がドイツ留学から戻って助教となり、工学科のカリキュラムが充実していきます。
丙助の在学中、札幌農學校で教鞭を取ったのは、佐藤昌介、廣井勇、宮部金吾、新渡戸稲造らです。校長は、佐藤昌介(代理、心得)や橋口文蔵が務めた時代です。


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