自家史シリーズです。
前回は、中宮寺の天寿国繍帳を取り上げました。今回は、龍安寺の「知足の蹲踞」です。
知足の蹲踞は、「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている、京都市右京区龍安寺御陵ノ下町の龍安寺にある手水鉢です。茶室「蔵六庵」の露地にあり、水戸黄門でおなじみの、水戸藩主徳川光圀の寄進によるものと伝えられています。なお、見学コースにある蹲踞は精密な複製です。
蹲踞の上部にある文字は「五・隹・疋・矢」と読みますが、水溜めに穿った中心の正方形を漢字部首の「口」と見て、「吾」「唯」「足」「知」が浮き上がり、「吾れ唯だ足るを知る」となります。「知足のものは貧しといえども富めり、不知足のものは富めりといえども貧し」という禅の格言を謎解き風に図案化したものです。
この蹲踞のデザインを家紋として見れば、石畳紋の「丸に四つ石」の形になっています。そして、丸に四つ石は当家の家紋であり、足=是と読んで、「唯是」が隠されているというわけです。

光圀の寄進が1600年代後半、江戸幕府5代将軍綱吉の治世、元禄年間あたりでしょうか。この時期の当家の動向は不明であり、私の8代前である小原治部右衛門が、歴史の舞台に登場するのは1700年代半ば、宝暦年間のことで、寄進からおよそ60~70年後です。
その治部右衛門が御祐筆として遠野南部家に仕えるようになった理由は判然としません。甲州譜代あるいは八戸譜代でないことから、他藩や他家から取り立てられた可能性が高いです。勤皇だった光圀と関係のある人物の子や孫かもしれません。御祐筆という役目柄、漢学や仏典にも通じていたことでしょう。天寿国繍帳や知足の蹲踞についての知識も有していたに違いありません。
そして当家は、治部右衛門の長子である仁左衛門(私の7世祖父)の代に、小原から唯是へと改姓しています。わが国の改姓は古来から通常、主君が臣下に名字を賜るものですが、仁左衛門は藩政改革の恩賞を問われ、自ら「唯是」を願い出、八戸怡顔に黒印状をもって認められた、と伝わっています。おそらく当家には連綿と続く口伝や秘伝があり、それらに基づいて先祖由来の名字を選んだものと思われます。

小原氏に関する研究ブログ『小原ルーツ』では、石畳紋を根拠に、当家の先祖を和賀氏か、あるいは和賀氏滅亡後にその血脈を継いだ小原氏である、としています。
改めて当家に関するキーワードを挙げておきます。
- 聖徳太子
- 天寿国繍帳
- 奥州藤原氏
- 清和源氏
- 和賀氏
- 小原氏
- 八戸氏(遠野南部家)
- 澤里氏
- 福田氏
- 知足の蹲踞
- 石畳紋
- 丸に四つ石
先祖探求・家系調査は続きます。

