山奈宗真山奈宗眞

2016年11月に当家のルーツについて書きました。

それから7年が経過しましたが、コロナ禍の間、空いた時間を使って先祖や家系の調査を進めました。数回に分けて、新たに判明したことを書いてみたいと思います。今回は、山奈宗眞と当家の関係についての記事です。

山奈宗眞(1847~1909)は、岩手の偉人として県史に名を遺す人物です。東日本大震災の復興で再評価の対象となり、近代における陸中一の偉人と評する向きもあるほどです。

山奈宗真|いわて復興偉人伝

三陸大津波と山奈宗真

山奈宗眞

山奈は明治維新後に改姓した名字であり、元は奥寺といいます(当家同様、改正の理由は不明。先祖代々の名字をそんなに簡単に変えられるものなのでしょうか?)。奥寺家は当家同様、江戸時代は遠野南部家の家中ですから、家格は士族です。1869(明治2)年の遠野諸士名簿によれば、幕末の当主は奥寺長右衛門。当家の戸籍を丹念に調べた結果、山奈(奥寺)家と唯是家のつながりが分かりました。

私の曽祖父・丙助(1866~1935)には、藤蔵(1841~1896)という母親違いで25歳上の兄がいました。藤蔵は江戸末期〜明治初期、遠野唯是家の部屋住だった人で、遠野諸士名簿にもその旨が記載されています。この藤蔵の妻・シヲ(1841~?)が奥寺長右衛門の次女で、宗眞の姉にあたります。血族ではありませんが、姻族ということになるでしょうか。当時の遠野南部家一門では、家中で相互に娶る、嫁ぐことが当たり前ですから、大部分が根城南部氏一族か、八戸譜代の家臣同士という関係です。

さて、藤蔵とシヲの間には2人の女子(宗眞の姪)が生まれましたが、男子は生まれず、長女に婿を取っています。その養子夫妻に女子が何人か生まれたようです。しかし、1886(明治19)年に編成された、いわゆる「明治19年式戸籍」によれば、事情は不明ですが、藤蔵はこの養子夫妻を離縁しています。その際、養子夫妻の女子から長女である孫娘のみを唯是家に残し、その孫娘にさらに婿を取っています。つまり、男系としては途絶えてしまったのです。

現在、わが国で皇統の危機が叫ばれていますが、同様のことが起こり得るわけです。

唯是家×山奈家相関図
唯是家 × 山奈家 相関図

事の顛末は不明ですが、丙助は次男ということもあったのか、1884(明治17)年前後、遠野を出て札幌農学校予科に入学し、札幌に移住します。

「丙助」という名から察するに、実際は三男で、早逝の次男が別にいたのかもしれません。この時代に兄・藤蔵の25歳下というのも不自然です。一世代ずれています。母・クマが後妻だったことが関係しているかもしれません。

丙助の叔母・スヱ(母・クマの末妹)が嫁いだ水越家が、札幌本府の中心(現在の狸小路1丁目付近)で暮らしていたところを頼ったようです。

そのうち、クマ(根城南部氏第5代政長、同第11代長安、三戸南部氏第18代時政の血統)も遠野を離れ、札幌に移ります。もしくは、長男筋の藤蔵に男子が誕生せず、家名存続を危惧したクマが若い丙助に唯是家を託すことにし、母子共に新天地の札幌に移ったとも考えられます。あるいは、もっと早い段階で唯是家と水越家が一緒に札幌に移ったのかもしれません。

その後、1893(明治26)年、丙助は札幌郡札幌村(現・札幌市東区)の副戸長(郡長代理、住民総代)を務めた稲葉元助の五女と結婚します。結果、男系の唯是家は丙助が継ぐことになり、丙助を祖とする札幌唯是家が事実上の主家筋となって、現在まで続いています。

話を宗眞に戻します。1896(明治29)年6月15日、三陸沿岸を大津波が襲いました(同年9月、宗眞の義兄にあたる藤蔵が亡くなっています)。49歳の宗眞は被害調査に出ることにし、気仙村(現・陸前高田市)から種市村(現・洋野町)まで、総延長700kmもの複雑な海岸線を単身徒歩で踏査し、一人の死者も一戸の流失家屋も漏らさずに記録したそうです。40日間にわたる全戸調査の結果を、1903(明治36)年に「岩手県沿岸大海嘯取調書」など7点にまとめ、帝国図書館(現・国立国会図書館)に寄贈しています。士族の誇りや気概に圧倒されるばかりです。

宗眞は1909(明治42)年、没しています。享年62。

ほかにも判明したことがいくつかありますが、随時、記事をアップしていく予定です。

By 唯是 一寿

唯是家第8代。1972年、北海道生まれ。早大卒。団体役員、会社役員、国家公務員(非常勤)。東京都港区在住。“風街”で合理性と最適化を追求する、ミニマルな人生。本ブログでは、公共・公益活動、先祖探求・家系調査、短歌について発信。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です