断続的に当家の歴史について書いています。そんな中、今月の『歴史人』は「奥州藤原氏の栄華と没落」がテーマです。早速、買って読んでみました。
ところで、過去に「「唯是」について」という記事を書いたことがあります。その記事では、当家のルーツが戦国大名の和賀氏であることを、家紋を根拠に論じました。また、唯是という名字が聖徳太子の遺言に基づく説も紹介しました。
じつは当家には、奥州藤原氏の末裔という説も伝わっています。従伯父である唯是震一(作曲家)の著書『私の半生記』(砂子屋書房、1983年)に次の記述があります。
私の父方の祖先の地は岩手県遠野である。一説に藤原秀衡の末裔だとも聞かされているが、その真偽のほどはつまびらかではない。もしそれが本当だとすれば、さらに遠く京都地方に求め歩く必要があるわけだが、・・・。
(唯是震一『私の半生記』)
この記述の信憑性を確かめるべく、私自身も可能な限り調べてきました。しかし、どうにも資料を見つけられません。『歴史人』今月号に何かヒントはあるでしょうか・・・・・・。めくってみましょう。
奥州藤原氏4代の一人ひとりを、時代背景を含めて詳しく解説しています。前述の「藤原秀衡の末裔」という点を確かめるべく、秀衡のページを念入りに読みます。秀衡の血統を示す記述はありません。
残念ながら、本号に第4代泰衡没後の奥州藤原氏の歩みを解説する記事はありませんでした。藤原清衡の孫・樋爪俊衝が源頼朝に所領を安堵された、とあるのみです。
『歴史人』3月号
さて、現時点での暫定的結論です。家紋から察するに、当家の男系のルーツが和賀氏であることは、ほぼ間違いないと思われます。歴史的資料からも、そう判断せざるを得ません。しかも、和賀氏の嫡流の直系のようです。私は正しくは、唯是家第8代ではなく、和賀氏第○○代なのかもしれません。
石畳紋(丸に四つ石)
してみると、奥州藤原氏は、当家の女系のルーツなのではないかと思います。過去に当家に嫁入りしたどなたかの先祖が奥州藤原氏だったのではないでしょうか。前述の震一の著書からすると、この伝承の出元が曾祖父・丙助であることは間違いありません。とすれば、遡ってのさらなる出元は丙助の母であるクマ(私の高祖母)ということになります。クマは遠野南部家御三家衆沢里家と永代家老格福田家の娘ですから、沢里家か福田家に伝わる伝承だったのかもしれません。沢里家または福田家の末裔の方を探し出して、詳しく話を聞いてみることが、奥州藤原氏への近道になりそうです。
近年、東北地方に近畿地方とは異なる文明が栄えていた、という説が学術界を賑わすようになりました。聖徳太子の末裔が東国に落ちのび、東北地方の盟主になり、そこに貴族や武士からなる国が形成されたとすれば、何とも夢のある話ではないでしょうか。その先に、奥州藤原氏や和賀氏が存在し、歴史が連綿とつながれたとすれば・・・・・・。
新たな発見で日本史が変わる可能性があります。コツコツと調査を続けていきます。