知足の蹲踞知足の蹲踞
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天寿国繍帳に続いて、知足の蹲踞と「唯是」の関わりについて書いてみたいと思います。

前回も触れた2016年11月の記事で、唯是という名字の由来として、龍安寺の「知足の蹲踞」についても紹介したことがあります。

先日、龍安寺を訪ね、その知足の蹲踞を見てきました。

まず、龍安寺の概要です。龍安寺は京都市右京区に所在する臨済宗の寺院で、1450(宝徳2)年に細川勝元が開基したものです。世界遺産にもなっており、白砂の砂紋で波の重なりを表す枯山水庭園の特徴を持つ、石庭が有名です。

石庭

知足の蹲踞は、茶室「蔵六庵」の路地にあります。水戸黄門で有名な、徳川光圀(水戸光圀)の寄進によるものと伝えられています。蹲踞の文字は、上から時計回りに「五 隹 疋 矢」ですが、水溜めに穿った中心の正方形を漢字の部首「口」として、「るをる」と読みます。「知足のものは貧しといえども富めり、不知足のものは富めりといえども貧し」という禅の格言を謎解き風に図案化したものです。

知足の蹲踞

この蹲踞は、家紋として捉えれば、石畳紋の「丸に四つ石」の形になっています。そして、丸に四つ石は当家の家紋であり、この蹲踞に関係しているとの伝承があります。足=是と読んで、「唯是」が隠されているというわけです。水戸光圀が寄進したとすれば、綱吉の治世、元禄期、1600年代後半頃のことでしょうか。当家が小原から唯是に改姓したのが1788(天明8)年ですので、寄進から100年程度の隔たりがあります。この時期の当家の歴史は不明であり、私の8代前の先祖である小原治部右衛門が遠野南部家の御祐筆として歴史書に登場するのは、1700年代半ばのことです。

丸に四ツ石
丸に四つ石

その治部右衛門が遠野南部家に仕えるようになった理由も判然としていません。同家八戸譜代の家臣ではありませんので、その能力を見込まれ、他藩や他家から招かれた可能性が高いです。御祐筆という役職から察するに、筆達者であったことは間違いありません。役目上、漢学や儒学にも通じていたものと思われます。知足についての知識もあったでしょうし、聖徳太子の遺言についても知っていたことでしょう。あるいは、祖先から連綿と続く口頭伝承(口伝)や秘伝を有していたのかもしれません。

当家は治部右衛門の次代である仁左衛門の時代に、小原から唯是に改姓しています。近代以前の改姓は通常、主君が家臣に名字を賜わるものですが、当家の場合、こちらから改姓を願い出て、八戸怡顔に認められた、と伝わっており、その黒印状が残っています。何らかの口伝や秘伝を根拠に改姓したのでしょう。

黒印状
八戸怡顔による黒印状

小原氏に関する研究者は、当家のルーツが和賀氏である、あるいは和賀氏を継いだ小原氏である、と推定しています。岩崎一揆後、野に下り、小原氏と同化した和賀氏宗家の末裔ではないか、というものです。

https://blog.goo.ne.jp/totch/e/3330a282d69bf9b36b6698769948d8e5

改めて、当家のルーツに関係するキーワードを列挙しておきます。

  • 聖徳太子
  • 天寿国繍帳
  • 知足の蹲踞
  • 奥州藤原氏
  • 和賀氏
  • 小原氏
  • 遠野南部家
  • 石畳紋
  • 丸に四つ石

史料が残っているものもあるとはいえ、列挙したキーワードのいくつかは伝承である以上、夢のある話の域を出ませんが、大切に語り継いでいきたいと思います。

ルーツを尋ね求める旅は続きます。

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唯是 一寿

唯是家第8代。1972年、北海道生まれ。早大卒。団体役員、会社役員。東京都港区在住
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By 唯是 一寿

唯是家第8代。1972年、北海道生まれ。早大卒。団体役員、会社役員。東京都港区在住

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