天寿国繍帳天寿国繍帳
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断続的に当家の歴史について書いています。今回は、天寿国繍帳と「唯是」の関わりについての記事です。

2016年11月の記事で、「唯是」という名字が聖徳太子の遺言に由来するという伝承を紹介しました。

先日、中宮寺(奈良県斑鳩町)を訪ね、その由来が織り込まれた「天寿国繍帳」を見てきました。

聖徳宗の中宮寺は法隆寺に隣接する寺院で、別名を「斑鳩御所」といいます。聖徳太子が母后のために創建した尼寺であり、開基は太子または間人皇后とされています。

中宮寺
中宮寺

天寿国繡帳は、中宮寺所蔵の染色工芸品です。現存する日本最古の刺繍であり、国宝に指定されています。飛鳥時代(7世紀)の製作と解明されています。1982(昭和52)年、保存の万全を期すため、原物は奈良国立博物館に寄託され、現在、中宮寺に置かれているものはレプリカです。本堂全体が撮影禁止のため、堂内やレプリカを写すことはできません。

天寿国繍帳(出典:中宮寺ウェブサイト)

天寿国繡帳には、聖徳太子の遺言とされる銘文が織り込まれています。それによれば、繍帳は太子の薨去を悼んで妃の橘大郎女が作らせた、「聖徳太子が往生した天寿国のありさまを刺繡で表した帳(とばり)」のことです。文中の「天寿国」とは、阿弥陀如来の住する西方極楽浄土を指すものと考えられています。

銘文の全文は『上宮聖徳法王帝説』に引用され、一部に誤脱があるものの、歴史学者の考証により、400字の文章に復元されています。

斯帰斯麻 宮治天下 天皇名阿 米久爾意
斯波留支 比里爾波 乃弥己等 娶巷奇大
臣名伊奈 米足尼女 名吉多斯 比弥乃弥
己等為大 后生名多 至波奈等 已比乃弥
己等妹名 等已弥居 加斯支移 比弥乃弥
己等復娶 大后弟名 乎阿尼乃 弥己等為
后生名孔 部間人公 主斯帰斯 麻天皇之
子名蕤奈 久羅乃布 等多麻斯 支乃弥己
等娶庶妹 名等已弥 居加斯支 移比弥乃
弥己等為 大后坐乎 沙多宮治 天下生名
尾治王多 至波奈等 已比乃弥 己等娶庶
妹名孔部 間人公主 為大后坐 瀆辺宮治
天下生名 等已刀弥 弥乃弥己 等娶尾治
大王之女 名多至波 奈大女郎 為后歳在
辛巳十二 月廿一癸 酉日入孔 部間人母
王崩明年 二月廿二 日甲戌夜 半太子崩
于時多至 波奈大女 郎悲哀嘆 息白畏天
皇前曰啓 之雖恐懐 心難止使 我大皇與
母王如期 従遊痛酷 无比我大 王所告
間虚仮
玩 味其法謂 我大王応
生於天寿 国之中而 彼国之形 眼所叵看
悕因図像 欲観大王 往生之状 天皇聞之
悽然告曰 有一我子 所啓誠以 為然勅諸
采女等造 繡帷二張 画者東漢 末賢高麗
加西溢又 漢奴加己 利令者椋 部秦久麻

「世間虚仮 真」という部分が、「唯是」という名字の由来と伝わっています。「世の中は空しい仮のもので、仏法のみが真実である」という意味ですが、真実が仏法のみかどうかはともかく、世間の事象に惑わされることなく、法(のり)の道理(ことわり)を重視し、物事の本質を見極めようとした、太子の思想が端的に表されている名言です。

さらに、私のファーストネームである「一寿」は、「天寿」から取られており、「命」を指しています。つまり、「唯是一寿」を書き下すと、「ただ これ 一つの 命」という意味になります。「名は体を表す」と申しますが、幼少時から特定疾患に悩まされ、名前負けの人生であると思います。子どもには単純な名前を付けることをおすすめします(笑)。

中宮寺を訪れ、名前の意味を再考する、貴重な機会となりました。中宮寺から法隆寺東大門へ至る参道を吹き抜ける風が印象的でした。

次回は、龍安寺の「知足の蹲居」について書く予定です。

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唯是 一寿

唯是家第8代。1972年、北海道生まれ。早大卒。団体役員、会社役員。東京都港区在住
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By 唯是 一寿

唯是家第8代。1972年、北海道生まれ。早大卒。団体役員、会社役員。東京都港区在住

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