高祖父・稲葉元助の生涯について、「稲葉元助と北海道開拓」シリーズを書いています。
前回の記事で、元助が札幌村の副戸長を長く務めたことについて触れました。当時の戸長制度について、もう少し掘り下げてみたいと思います。『新札幌市史』第2巻(通史2)では、次のように説明されています。
村三役は近世村の組織であり戸長、副戸長制の創出にともない廃止されることになった。廃止の時期は、札幌村名主小熊善右衛門は五年六月(履歴書札幌村郷土記念館―写真3参照)、篠路村名主早山清太郎は七月に(共進会書類 道文四五五三)差免されているので、この頃とみられる。明治政府は五年四月九日に、荘屋・名主・年寄等を廃止し、かわって戸籍編成につき戸長・副戸長の設置を定めているので、この太政官布告をうけて間もなくの頃であったが、戸長、副戸長の設置の時期とは少しずれがみられる。
札幌市教育委員会編『新札幌市史』第2巻(通史2)、291ページ
戸籍制度の導入により、明治維新以前の村三役が廃止され、正副戸長が置かれるようになりました。札幌郡では、1872(明治5)年以降、順次、切り替わっていったようです。
明治七年二月に大小区制が施行され、札幌区と札幌郡は石狩国第一大区に編入され、六小区にわけられた。おそらく九年九月の大小区制と同様に、第一~三区は札幌区の市街で、諸村は以下のようになっていた。
第四小区 円山・琴似・上手稲・発寒・下手稲・山鼻村
第五小区 豊平・上白石・白石・平岸・月寒村
第六小区 札幌・雁来・苗穂・丘珠・篠路・対雁村
大小区制にともないこれまでの副戸長、伍長が廃止された。廃止の理由は、「文盲之者而已多く取締向も不行届にて御用弁不相成」(市史 第七巻九三五頁)とされ、かわりに副戸長の事務を引継ぐ村用掛の設置が七年二月に計画されていた。これは市街の町用掛にならったものであるが、この計画は実現をみなかった。
それにかわり従来の副戸長が引き続きおかれ、さらに副戸長を補佐する公選の総代・副総代が新たに設置された。ただし、各村に副戸長がおかれたわけではなく、戸数の多寡と事務の繁閑を勘案して表5のように六形態にわたる配置がなされ、複雑な配置となっている。副戸長は月給七円、総代は五円、副総代は三円が開拓使から給与された。各村での副戸長以下の任命は、七年九月の任命のみは開拓使で人選したが、欠員補充の人選は以降、選挙で行われた。なお任期は定まっていなかった。各村における副戸長以下の変遷は表6の通りである。同上、299~301ページ
元助が札幌村副戸長に任ぜられたのは、1874(明治7)年です(↑冒頭のアイキャッチ参照)。副戸長に加え、それを補佐する総代・副総代が置かれた時期もあります。
十一年三月に開拓使の札幌本庁下では、村落の状況が府県と同様になってきたことを理由に、村落の行政組織の改編に取り組んだ。それによると四、五、六の各小区に副戸長を各一員ずつ配置し、各村の総代、副総代は一員のみに限ろうとするものであった。しかし一時にそれを遂行すると、「因襲之人気何トナク穏カラザル義」につき、一村に副戸長一員、総代(副総代)一員の設置とされた(市史 第七巻九五二頁)。この結果、琴似村に兵村と併立していた副戸長は一人とされた。だが琴似村では、再度にわたり坪内猪之助の在留を求める請願が出されたが、これは認められなかった(区戸長進退録 道文二四八六)。
一村一員にもとづき各村の総代、副総代の差免が四月に行われ、さらに六月になると総代、副総代制も廃止となった。しかしその後も、旧(元)総代などの名称で事務取扱を担当している。同上、307ページ
1878(明治11年)には、総代・副総代が廃止され、村の代表者は副戸長となります。
明治十一年七月に出された郡区町村編制法にともない、これまでの大小区制が廃止され、それ以前の郡(区)町村制が復活となった。このため、開拓使でも十二年十月十五日に従来の大小区制に付随する戸長、副戸長制が廃止となった。またこれより先に、郡や諸村を統轄する郡長、戸長の職制が七月二十三日に定められた。新たな郡長、戸長制は十三年二月から開始された。
札幌の場合は、当初札幌郡はおかれずすべて札幌区に編入され、札幌区長が札幌市街(区)とともに諸村の事務を取り扱った。しかし十七年四月一日に至り、札幌郡が改めて設置されて諸村は札幌郡に編入となり、市街のみが札幌区となった。ただし郡役所は区役所に併設され、札幌区長が札幌郡長を兼任していた。札幌区長は発足当初より石狩、空知、夕張など一三郡(のちに一六郡)の郡長を兼ねている。
札幌の周辺村は五ブロックに分けられて、一人の戸長が数カ村の戸長を兼ね、各戸長の自宅に戸長役場が開設された。戸長の任命は二月に行われた。同上、307~308ページ
1880(明治13)年に始まった、新たな戸長制度において、元助はいずれかの時期に戸長に任ぜられた可能性があります。札幌市の公式の記録では、小熊善右衛門が札幌村戸長となっていますが、大蔵省が1885(明治18)年に編纂した『開拓使事業報告』第5編では、「札幌郡札幌村戸長稲葉元助」との記録があり、元助が戸長であるとされています。

このあたりの真偽は、また別の機会に調査したいと思います。
その4へつづく
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