高祖父・稲葉元助の生涯について、「稲葉元助と北海道開拓」シリーズを書いています。
1873(明治6)年、札幌村に入植した元助は、広大な原野の開拓に取り組みます。開拓した土地は小作人たちに分け与えたり、貸し出したりし、札幌村は畑作地として発展します。札幌で初めて稲作に成功し、東皐園で花菖蒲等の栽培を行った、上島正の回想録に次の記述があります。
で,何とかして水田がやって見たいと,今度は高橋亀次郎氏に相談致しました所,繁松の様ではない。少しは話が面白い。高橋氏は繁松と違って大いに話の調子が合う。自分が稲田試作の事を語(かた)りしに,私も月寒にある所有地に稲の試作がして見たいと思っている所ですから,これから一緒に行って見ますかと云うに,左様ならばというので只今兵営のある所より南にあたる水団地に来り自ら鍬を執た。ここに始めて水田試作の目的だけは達しました。尚この外に札幌村に一ケ所試みました。これは当時の戸長,稲葉元助氏の所有地を借りた訳です。さて,いよいよ秋になりまして,両所共に稲は無類の上出来,まるで鬼の首でも斬った様な心地が致しました。
上島正『想い出の記』(1900年)
この回想録においても、元助は「当時の戸長」となっています。これは1877(明治10)年の話で、文中の「稲葉元助氏の所有地」は現在の札幌市東区北8条東8丁目だそうです。

その2で稲葉家の所有地の範囲を「南北は北10条~北13条」と記しましたが、上島正の回想録が正しいとすれば、南は北8条あたりまでが稲葉家の土地だったのかもしれません。現在の北8条通り付近が、当時の札幌村と苗穂村の境界ですから、その蓋然性は高いと思われます。
北海道における稲作の先駆者に土地を提供したのが元助であったということは、道産米で育った者としては感慨深いものがあります。「⚪︎⚪︎いなば」という品種があっても不思議ではありません。
また、従伯父・唯是震一の著書には、このような記述もあります。
この長男一三が私の父であり、明治二十七年(一八九四)、甲午生まれである。父は室蘭で小学校を卒えて、札幌第一中学校(現南高)に入学し、元村のスエの実家(稲葉)から徒歩で通学していた。その頃はあたり一面田んぼと野原続きで森林地帯も多く、下校の際、時折きつねも現れたという。一中までの道程もかなりなもので、片道一時間余りを要したことになる。稲葉家の庭園には何本ものりんごの木が植えられていて、腹をすかした父はよく木にのぼり、りんごをもぎ取って、たらふく食べたそうだ。
唯是震一『私の半生記』(砂子屋書房、1983年)
明治中期から後期の稲葉家の所有地には、水田のほか、りんご等の果樹園もあったようです。
札幌村では、1881(明治14)年から玉葱の生産が始まりました。播種器や乾燥器を用いた品質向上に支えられ、道外産と出荷時期がずれることもあって、有利な商品だったようです。「札幌黄」という名称で有名になり、玉葱は村の主要な農産物でした。
稲葉家の所有地で玉葱を作っていたという話は聞いたことがありません。小作人たちが取り組んでいたのかもしれません。元助本人は農業に従事するよりは、事実上の村長として行政事務に忙しかったのだろうと推測されます。
そんな元助に人生最高の栄誉が来ます。
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